タワーマンション

私が住んでいる板橋区の大山地区は、現在再開発を行っており、二棟のタワーマンションの建設が進みつつあります。大山には、ハッピーロードという全長560メートルほどの商店街があり、アーケードが付いた商店街としては、都内有数です。その商店街が、再開発によって分断され、現在の形が無くなろうとしています。

商店街を通る補助26号線(東京都道420号)の拡幅計画に伴って、商店街には四棟のタワマンが立ち、東武東上線が高架になるのです。しかし、なぜ再開発にタワーマンションが必要なのか。現在、東京の至る所でタワーマンションが建設されておりますが、これは高度経済成長期の上物主義が未だに続いていることの証ではないでしょうか。世界の潮流に逆行しているとしか思えません。お題目でSDGsを掲げているような不動産会社は、許せません。政治と行政に我々自身がもっと目を向けなければなりません。

ウクライナ―文化

19世紀、ウクライナがロシア帝国に属していた時、ウクライナは小ロシアとよばれることがありました。この小ロシア出身の作家にニコライ・ゴーゴリがおります。彼が作品を書く際に使用した言語はロシア語でした。ロシアの主都、ペテルブルグに出て活躍したゴーゴリには、幻想都市ペテルブルグを舞台にした小説群があり、後世の作家に多大な影響を与えました。「ネーフスキイ通り」、「鼻」、「外套」、「肖像画」、「狂人日記」などです。殊に人道主義的な「外套」は、ドストエフスキーをして「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」と言わしめました。ペテルブルク小説群に対して、ウクライナものと呼べる小説群も書いております。出世作の「ディカニーカ近郷夜話」、「昔気質の地主たち」、「ヴィイ」、「タラス・ブーリバ」などです。故郷のウクライナを詩情豊かに語っております。中でも「タラス・ブーリバ」は、ウクライナ侵攻で激戦地となっているサボリージェのコサックを主人公とした幻想的な物語です。小説の舞台となった地は、既に嘗ての面影を見ることは出来なくなっているのでしょうか。

ウクライナ―言語

ウクライナ語はインドヨーロッパ語族——東はインドからイラン、西はアイスランドまでを含む広大な地域で話されている言語——の中のスラヴ語派に属する言葉です。スラヴ語派は、西スラヴ語群、南スラヴ語群、東スラヴ語群に分かれます。西スラヴ語群に属するのは、ポーランド語、チェコ語、スロバキア語など、南スラヴ語群は、セルビア語、クロアチア語、ブルガリア語など、東スラヴ語群属するのは、ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語などです。西スラヴ語群に属する言語は、文字にラテン文字使用し、南と東のスラヴ語群は、キリール文字を使用します。これは西スラヴ語群の国々はキリスト教カソリック教会に属し、残りの二群の国々はキリスト教正教会に属していたからです。つまり、西スラヴ語族は、西ローマ帝国の文化圏にあり、南と東は東ローマ帝国の文化圏に属していたのです。セルビア語とクロアチア語は、セルビア・クロアチア語と称され文法的にほぼ同一の言語として扱われますが、使用する文字が異なります。キリスト教の会派が異なるからです。ユーゴスラビア紛争の際、同じキリスト教でありながら会派が異なるために、この二つの国は徹底して戦いました。

神宮外苑再開発つづき

永井荷風の「江戸芸術論」の「浮世絵の鑑賞」からの引用です。残念ながら、荷風の時代から歴史を顧みない精神は変わっていないのです。

余はまたこの数年来市区改正と称する土木工事が何ら愛惜あいせきの念もなく見附みつけ呼馴よびなれし旧都の古城門こじょうもんを取払ひなほいきおいに乗じてその周囲に繁茂せる古松を濫伐らんばつするを見、日本人の歴史に対する精神の有無うむを疑はざるを得ざりき。泰西の都市にありては一樹の古木一宇いちうの堂舎といへども、なほ民族過去の光栄を表現すべき貴重なる宝物ほうもつとして尊敬せらるるは、既に幾多漫遊者の見知けんちするところならずや。しかるにわが国において歴史の尊重はだ保守頑冥がんめいの徒が功利的口実の便宜となるのみにして、一般の国民に対してはかへつて学芸の進歩と知識の開発に多大の妨害をなすに過ぎず。これらは実に僅少きんしょうなる一、二の例証のみ。余ははなはだしく憤りきまた悲しみき。然れども幸ひにしてこの悲憤と絶望とはやがて余をして日本人古来の遺伝性たるあきらめの無差別観にらしむる階梯かいていとなりぬ。見ずや、上野の老杉ろうさんは黙々として語らず訴へず、ひとりおのれの命数を知り従容しょうようとして枯死こしし行けり。無情の草木はるか有情ゆうじょうの人にまさるところなからずや。

青空文庫 永井荷風「江戸芸術論」より

神宮外苑再開発

神宮外苑の再開発に対して反対運動が起こっています。反対側は、これまで継承されてきた歴史と文化が失われると反対しているようです。日本の政治は、余りにも安易に、それぞれの街や地域に積み重ねられた時間――歴史を無視して、開発を継続してきました。都心の至る所で進められているタワーマンションの建設と再開発。開発側は自慢げに喧伝しますが、どれもこれも同じような、型に嵌ったようなものばかり(コレド室町・コレド日本橋なぞ、愚の骨頂、江戸の街の一体何を知っているというのか)。全く人間味の無い街並み。一体だれがこの状況を歓迎しているのでしょうか。この開発によって潤う業者と業者から多額の献金を受ける政治家でしょうか。我々一般市民が、余りにもこの現状に無関心でいることが、根本的な原因ではないかと思われます。我々の意識の改革こそが、閉塞状況を打破する鍵となるのではないかと思います。